2008年12月28日「あなたの信仰があなたを直したのです。」ルカ18:35〜43
 
 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。ルカ18:35〜43

●ナザレのイエスからダビデの子イエスに
 イエス様がエリコの町に近づかれました。エリコの町はエルサレムに通じる玄関口のような所にあったイスラエルで最も景観の美しい町の一つです。良質の水と様々な木々が生い茂る素晴らしいところでした。ルカ18章の今日の本文を見るとイエス様がエリコの町を通っておられますが、この後、イエス様は十字架への道に向かわれるのです。このエリコの町をイエス様が通られるとき、一人の盲人の話が出てきます。バルテマイ(マルコ10:46)という名の盲人です。バル(子)、テマイの子という意味です。目の見えない方は今の日本だと、色々と社会的に生活保護とか社会保障制度で守られますが、当時のイスラエルでは社会的に一番底辺に置かれた惨めな人たちでした。物乞いをすること以外は生活の手段がない状態の人たちですね。ですから、盲人たちは大概、町の大通りに出て行き、そこに座り込んで物乞いをするのが一般的でした。今日の本文を見るとバルテマイという盲人が物乞いをするために道ばたに座っています。大勢の群衆が通られるのを知ったバルテマイは これはいったい何事ですか、と尋ねましたね。そこで、ナザレのイエスがお通りになるのだと知らされました。ナザレという町の出身のイエスがお通りになる、これは、軽蔑の言葉です。ナザレという地域に対する偏見がユダヤ人には根強くありました。ナザレは周辺の国々に繋がる貿易路にあった町でしたから、混血が多く、そのような理由などから、イスラエルの人々はナザレを軽蔑していました。ナザレのイエスというときは、そのような意味が含まれ、軽蔑するような思いが現れているわけです。しかし、バルテマイはナザレのイエスがお通りになるのだと聞いて何と叫びましたか? 読んでみましょう。
  群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。 ダビデの子のイエス様、でしたね。イスラエルの人々は、みなナザレからは何の良いものも出ては来ないと思っていました。また、すべてのイスラエルの人々は、ダビデの子孫から救い主メシアが生まれるという預言を知っていたし、信じていました。すなわち、バルテマイは、皆が呼んでいるように、ただの人間であるナザレのイエスという軽蔑を込めた名前で呼んだのではなく、世の救い主、メシア、神の御子として信じ、叫んでいるのです。ダビデの子のイエス様とは、そのような意味なのです。
 ダビデの子のイエス様!! 私をあわれんでください。
 自分の目が見えるようになるという、そのことを信じる以前の問題があるのです。ナザレのイエスがあなたの病いを癒し、問題を解決させ、命を与える、ダビデの子イエス様、救い主、メシアであることを信じなければならないのです。このイエス・キリストがまことにそのようなお方、私たちの救い主、神の御子であると本気で信じていますか?

●周りからの声、圧力に勝たなければならない

 バルテマイが「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫んだとき(これはバルテマイがイエス様をただの人間ナザレのイエスとしてではなく、神の御子、ダビデの子孫、メシアとして信じることを告白する叫びですが)どんなことが起こりましたか? 読んでみましょう。彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、とあります。すなわち、周りは彼の叫びを押しつぶそうとして、圧力をかけてきました。しかし、バルテマイはそれに負けなかったのです。続きです。
 盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
 そして、バルテマイの信仰の叫びは、イエス様の足を立ち止まらせました。 お読みしましょう。
 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」
 みなさん、イエス様の足を立ち止まらせるのには乗り越えなくてはならない困難があるのです。周りからの声や圧力だけではなく、自分の心の中から聞こえて来る不信仰や否定的な考え、罪などによっても、私たちの声は阻まれてしまうのです。それに打ち勝つ必要があります。バレテマイはその圧力に打ち勝って、叫び続けました。バルテマイの叫び声に立ち止まられたイエス様は彼に聞きます。私に何をしてほしいのか。バルテマイはお金が欲しいとは言いませんでした。家が欲しいとも言いませんでした。彼は「主よ。目が見えるようになることです。」と言ったのです。バルテマイはイエス様を見ることを願い求めたのです。霊的な願いをまず求めてください。
 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。 Vヨハネ 1:2  ここに書かれている「たましい」という言葉はギリシャ語の原文で、プシュケ(キリストによって与えられた新しい霊的な命という意味)

●あなたの信仰があなたを直したのです

 そして、次にイエス様が言われたお言葉に注目してみましょう。
 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われる
と、彼はたちどころに目が見えるようになり

 あなたの信仰があなたを直した。どんな信仰ですか。私は見えるようになる癒されるという信仰だったでしょうか? たしかにそうでしたが、もう一つ大事な前提があります。それは、群衆にナザレのイエスと呼ばれている、このイエス様は私の目が見えるように癒しすことのできるお方だ。この方は神の御子、ダビデの子孫、メシア、救い主であるということを彼が信じたことです。イエス様がこのようなお方だから、イエス様によって必ず癒されるという信仰です。イエス様はバルテマイに言いました。 読んでみましょう。
 あなたの信仰があなたを直したのです。 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
 癒されたら自分の用が済んだから、さようならバイバイではなく、バルテマイはイエスについて行きました。イエス様の癒しの目的は、ただ単に私たちの肉体が癒されるだけのためではありません。私たちの霊が生かされ、永遠のいのちを得るためなのです。バルテマイがイエス様に出会って、その霊の目が開かれたとき、彼には新しい人生が開かれました。肉体の目も見えるようになりましたが、バルテマイにはそれを遥かに超えた祝福と変
化がありました。彼はイエス様について行きました。肉体の目が見えないことより、耳が聞こえないことより大きな暗闇は霊の目と耳が塞がれて救い主イエス様を見ること、イエス様の御言葉を聞くことができないことです。
  十字架のかげに泉湧きていかなる罪もきよめつくす
  おらせたまえこの身よ主よ十字架のかげにとこしえまで(聖歌396)
 多くの賛美歌を残した有名なクリスチャン、ファニー・クロスビー(Fanny Crosby)は医者の間違いで、生まれて6ヶ月で目が見えなくなってしまいました。目が見えなかった彼女は、それから、暗い人生の苦しいトンネルを通りました。 しかし、彼女には詩を作る賜物と美しい歌声が与えられていました。そして、彼女が30歳になった年のある日、ニューヨークで開かれたある伝道集会に参加して、賛美歌を歌っていたとき、イエス様の十字架の救いの恵みが心に迫り、涙を流します。その涙は彼女の人生の暗闇を消し去っていくように流れました。そして彼女は神様に言いました。「主よ、私もあなたのために何かできることがあるのでしょうか?」「そのとき、神様は彼女に示されました。あなたには歌を作る賜物があるのではないか。」ファニー・クロスビーは、それに答えて一生涯を神様に捧げる賛美を作ることに捧げ、95歳のときまで、8千曲の賛美を作詞しました。彼女の肉体の目は最後まで見えなかったのですが、彼女の霊の目は開かれ、暗闇の人生から光輝く人生へと変えられ、偉大な生涯を全うしたのです。
 
 今日、皆さんも叫んでください。「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」イエス様は
あなたの霊の目を開いてくださいます。そして、あなたの肉体の病いをも癒してくださいま
す。信じますか?



2008年11月9日 「愛し合うことの極意」 Tヨハネ4:7〜16

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのちに全うされるのです。神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。Tヨハネ4:716

●神の愛、それはイエス・キリスト
 今日の御言葉Tヨハネ4:716に出て来る「愛」という名詞はすべての「神の愛」、すなわち、「イエス・キリスト」を指して言っています。それでは、「愛」という所を「イエス・キリスト」に代えてもう一度読んでみましょう。

 それから、動詞としての愛、すなわち、愛する、愛し、愛し合うという言葉が出ていますが、そのうち、私たちに神様が求めておられることとして「愛し合う」という言葉が繰り返し出てきます。皆さん、愛し合っていますか?

愛し合うこととは?
 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。ピリピ1:21 
 愛し合うことの極意、それは、互いに対して、キリストを生きることです。

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20
 もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」ヨハネ13:35
 すなわち、私たちが互いに愛し合う、互いに対してキリストを生きるなら、世のすべての人が私たちを通して生きておられるイエス・キリストを見るということです。イエス・キリストを生きる人生、それが、クリスチャンの人生です。

 人を愛するとはその人に対してイエス・キリストを生きることです。また、自分に対してもイエス・キリストを生きることです。自分を大切にする唯一の方法は自分に対してイエス・キリストを生きることです。私たちはよく勘違いしていることがあります。それは、自分自身が一番自分を愛していると思うことが一つです。もう一つは自分のことは自分が一番よく知っていると思うことです。でも、実際のところは違うんです。自分を一番愛しているのは自分自身ではなく、イエス様です。自分を一番よく知っているのも自分自身ではなく、イエス様です。

●どうすれば、キリストを生きることができるのか
 生きるということは何でしょうか? 生きるとはいのちあって初めてできることですね。そうですよね。キリストを生きるためにはキリストのいのちを持ってなければなりません。 皆さんはイエス・キリストにあるいのちをお持ちですか?まだ、持っていない方は是非、今日、イエス様にあるいのちを受け取ってください。

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。Tヨハネ4:9

★どうすれば、イエス・キリストにあるいのちを得ることができるのか?
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
 いのち、永遠のいのちを得るためには、自分の罪、とがを背負って身代わりに十字架でくださり、三日目によみがえられて、今なお生きておられる神の御子、イエス・キリストを世の救い主として信じることです。
 このイエス・キリストにあるいのちを持った者は、イエス・キリストを生きることができます。イエス・キリストを生きる人生、それがクリスチャンの人生です。 
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。ガラテヤ2:20
 人を愛するとはその人に対してイエス・キリストを生きることです。また、自分に対してもイエス・キリストを生きることです。

適用(愛し合う、キリストを生きることの具体的な生き方として)
@御言葉に従うことによってキリストを生きることができます。御言葉に従いましょう。

A「これは、イエス様がしなさいと言われたんです。」と言えるかを自問自答してみましょう。 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。ルカ6:31

 イエス様が私たちをイエス・キリストの弟子とされたのはイエス・キリストを生きる者とならせるためです。神のご計画はここにあります。

2008年10月26日 「天地を造られた主からの助け」 詩篇121:2
 詩篇121:2 私の助けは、天地を造られた主から来る。
 昨日、ちょっと転んで、膝の皮が剥かれていたい目にあったんですが、北大医学部の外科部長の先生が来て薬を塗って治療してくれましたよ。ジョークですが、あり得ないですね。
 今日の御言葉ですが、「私たちの助けは天地を造られた主から来る」 どんなことを助けてくださるのでしょうか? 本当は些細なことでも主は助けてくださいます。私たちが求めるならば、そうです。先ほど、北大医学部の外科部長の話をしましたが、「何、それくらいのことで来るはずないよ。」と思ったでしょう。確かにそうですね。来ないと思います。でも、皆さんがお父さんといっしょに公園で遊んでいたとします。そして、転んで怪我をしました。一緒にいた皆さんのお父さんが北大医学部の外科部長だったら、どうでしょう。間違いなく手当してくれることでしょう。それくらいの傷で北大外科部長が。。。でも、間違いなくやってもらえますよね。そうです。私たちの主は私たちの天のお父さんです。いつも私たちといっしょにおられると言われました。このお父さんは天地の造り主なのです。天地の造り主であっても私たちの天のお父さんです。私たちは子供とされた者たちですから、どんな些細なことでもそれが私たちにとって必要であれば、助けてくれないはずはないです。「 いや。。でも助けてもらえないときが多いよ。。」とブーブ言いたくなる人もいると思いますが。。。私たちの子供たちも時折、助けてくれない、やってくれないといってブーブ言ってますよね。でも、本当は必要な満たしは与えられていると言わざるを得ません。
 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さ
のうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。Uコリント12:9

 沈没しかけている舟に皆さんが乗っているとしたら、何が必要ですか。何が助けとなりますか。いのちの問題の前では他のものは価値を失います。いつも価値をおいていた事柄がその価値を失ってしまうのです。なぜなら、命ほど大切なものはないからですね。
 もう一つ、私たちの人生は必ず沈没する舟に例えることができます。死はだれの人生にもどこかで待ち伏せしているのですから。。この人生の本当の助けは何なのでしょうか。それは死から命に移されることです。この命とは永遠の命に他ならないのです。神様の助けはこれと深く関わりがあります。 しかし、私たちの求める助けは多くの場合、現世的な物質的なものであることが多いですね。

主から来る助け
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。詩篇103:1〜5

@罪の赦し主は、「あなたのすべての咎を赦し」
 例)大隊長の話
 軍隊にいた時の話ですが、あるクリスマスの近い夜でしたが、その日は私が所属していた部隊に新しいボイラが取り付けられた日でした。夜の海岸警備勤務に出た私は途中寄り道をして(してはならないことでしたが、)村にあった小さな店に行って、お菓子を買いました。そして、次の勤務場所に行くときに小隊本部によるのですが、そのとき、買ったお菓子をボイラ室に隠してから行きました。そして、勤務交代になって小隊に戻ってきたとき、小隊の前に大隊長のジープが停まっている見えました。そして急いでお菓子をとるためにボイラ室に行きましたが、隠しておいたお菓子が無かったのです。一瞬、いやな予感がよぎりましたね。「大隊長に見つけられたんだ。。。しまった。」 新しいボイラが来た日だったので大隊長はうちの小隊に立ち寄ったのでした。しかも愚かなことにお菓子をボイラ室に隠すとは。。。恐る恐る建物の中に入って行くと大隊長、小隊長らが立っていました。そして、大隊長の手には私がボイラ室に隠しておいたあのお菓子の袋がありました。これはまずい、、と思いながら、私は敬礼をしました。そのとき、大隊長がこう言いました。「第二小隊にはサンタさんがちょっと早く来たようだな。」と言い、手にしていたお菓子を私にくれたのです。胸を撫で下ろしましたね。大隊長はきっと誰かが勤務中に店に立ち寄ってお菓子を買ってボイラ室に隠したことは分かったと思いますし、私の顔を見てこいつが犯人だと分かったでしょう。顔にきっと「しまった」という雰囲気が現れていたのだと思います。でも、見過ごしくれました。赦してくれたんです。しかも、ユーモアを用いてそのお菓子を渡してくれた訳です。本当に赦されることの感謝な気持ちというのはよーく分かります。
 この大隊長の名前は今でもはっきり覚えていますよ。20年近くなりますけど。。。他の人の名前は殆ど覚えていません。チェ・ミョンゴンさんです。
 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。詩篇32:1
 私たちはみな、そむきの罪を赦された者たちですね。罪を主に覆ってもらった者たちです。何と幸いなことでしょうか。罪は私たちに滅びをもたらします。罪を赦されていることは何と感謝なことでしょうか。ローマ6:23 には「罪から来る報酬は死です。」とあります。罪の代価は死です。何を払えば死から免れるでしょうか。私たちは罪を赦された者たちです。罪の赦しそれは天地を造られた主からの助けに他なりません。
 
A全人的癒し(平安) 「あなたのすべての病をいやし」
 最近よく聞くことばの中に「いやされるね」「いやし系だね」「いやし」という言葉がちょ 
っとはやっています。何が癒されるのか「心」ですよね。心安らぐ、穏やかになるという意味だと思いますが、病気に対しても病院とかでこれを用いています。いやし系の音楽や動物を用いたり、すなわち、癒しの環境ということが用いられています。
 主から来る助けは「全人的な癒し」です。単なる病気のいやしだけであるなら、それは「全人的ないやし」ではないのです。もしかしたら、肉体は癒されないかもしれない。けれども、癒されているかもしれません。主が与える助け、それは「全人的な癒し」なのです。
 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。ピリピ4:6〜7
 人のすべての考えにまさる神の平安によって心と思いがキリスト・イエスにあって守られている状態、これが全人的に癒されている状態だと思います。

例)ナビゲーターという宣教団体がありますが、1933年に米国のドーソン・トロットマンとい
う一人のクリスチャンによって始まりました。現在は世界中に広がっています。世界宣教に大きく貢献した宣教団体の一つです。ドーソン・トロットマンは1956年、湖に溺れているある人を助けて彼自身は息絶えました。ビリ・グラハムがドーソン・トロットマンの葬式でメッセージをしましたが、ドーソン・トロットマンはビリ・グラハムの集会でイエス様を信じました。そして、ドーソンはいつもビリを慰め、励ます人でした。当時のタイム誌は彼の死について次のように書きました。「ドーソンはいつもだれかを立て上げる人でした。」ドーソンの妻はこう言いました。「彼に対する神のときが来ました。神様はご自分の御心のままにことを行われます。」ここに表されているのは病気よりも、死よりも大きな何かです。主から来る平安、全人的な癒しを体験していたドーソン・トロットマンの人生を見ることができます。
 肉体は健康であってもこのような意味で不健康な状態の人が何と多いことでしょう。主から来る助けは「全人的な癒し」です。

B滅び、死の状態から命へ引き上げられた「あなたのいのちを穴から贖い」
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
 例)20世紀を代表する実存主義の哲学者だったシャルトルは1980年3月、パリの病院に肺水腫のため入院しました。彼は入院していた1ヶ月の間、ずっと暴れていました。大きな声を上げたり、お見舞いに来る人たちに大声を張り上げました。彼は死に対する不安と恐れのために自分の病名すら聞きたくなかったのです。シャルトルは自由を題材にした人々に感動を与える多くの著作を残しましたが、彼の最後は惨めなものでした。彼は1980年4月16日、入院さきの病院で死にました。彼が死んだ後、フランスの新聞はシャルトルの死について騒ぎ始めました。死からの自由についてあれほど熱く語っていたシャルトルの最後がこんなにも惨めだった理由についてある読者はこのような記事を投稿しました。「シャルトルの最後がこんなにも惨めだった理由は彼には帰るところが無かったからである。」と。
 それからもう一人、ドイツ神学者ディトリヒ・ボンヘッファーは第二次世界大戦中ドイツの
収容所でナチーに立ち向かって戦い続けましたが、収容所で死を迎えました。ある日、看守がドアを叩きました。彼は直感的にこれが最後であることが分かりました。彼は立ち上がって同じ部屋の囚人たちにこう挨拶しました。「友達のみなさん、私にいま死が訪れてきました。しかし、覚えていてください。これは最後ではなく、始まりなのです。イエス様が私のために備えておられる天の父の家で再び会える日までのお別れに過ぎません。」この最後の挨拶をしたボンヘッファーの顔からは驚くべき平安と喜びが溢れていました。収容所にいた人たちは主を信じ、主に信頼している人の死を前にした姿に衝撃と感動を覚えました。シャルトルとは違って、ボンヘッファーには帰る故郷があったのです。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。ヘブル11:16

C罪の奴隷の状態から助け出され、神の子とされる。「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」 奴隷の状態から助け出され、神の子とされている。
 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。ガラテヤ4:6〜8
 けれども、私たちの国籍は天にあります。ピリピ3:20
 皆さん、国籍はどう決まりますか。一つはその国に生まれることです。でも、これは一部の国の場合ですね。これを属地主義と言います。日本は違いますよね。属血主義です。これは親のどちらかが日本人でない場合は日本国籍にはなりません。もう一つの方法は帰化、市民権取得などですね。これには難しい条件が付いてきます。先の御言葉ですが、「私たちの国籍は天にあります。」すなわち、天国人だということですが、皆さんはどのようにして天国籍を取得しましたか? 天国に生まれた? 親が天国人だったから? 天国=神の国ですが、神の国はこの世にはありません。ですから、天国籍は属地主義ではありません。属血主義です。イエス様の血に属しているかどうかですね。私たちが神様の子供であるのかどうかが問われます。どうすれば神様の子となれますか?
 ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 すなわち、イエス様を信じる信仰が必要ですね。イエス様を信じた皆さんはですから天国籍なんです。そして、この世にいるクリスチャン一人一人は天国、神の国の大使なのです。
 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。Uコリント5:20

D良いもので満たされる人生「あなたの一生を良いもので満たされる」
 神様がしてくださることは間違いなく私たちにとって良いものなのです。しかし、それを受
け取るかどうかは自由です。神様が与える良いものを拒みながら、良いものが与えられないというならば、それは自分が見て良いと思われるものを与えてくれないという不満を言っているのです。最近食品安全に対する危機意識が高まっていますね。餃子事件から、メラミン事件や色々と問題になることが次々に起こっていますが、見た目、美味しそうに見える、食べたくなるようなものですが、害をもたらすものが入っているわけですね。良いものの基準は聖書を見るならば、私たち人間と神様とでは違うことが分かります。
 親は子供が願うものすべてを与えはしません。子供はまだ、何が良いもので何が良くないものかを充分に見極めることができないのです。親はそれを弁えて、子供にとって良いものを選んで与えるのです。しかし、良いものを上げようとしても子供がそれを嫌って拒むなら、なかなか親の思い通りに与えることができないです。
 神様は私たちの人生が良いもので満たされることを私たち以上に願っておられます。
 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。ローマ8:32
 みなさんは、天のお父さんが私たちに与えようとしておられる良いものを受け取る用意ができていますか。

適用
@思い出せるかぎり、主からの助け、与えられた恵みの数々を記録してみましょう。
A今週一週間は主が与えてくださる恵みと助けに注目してみましょう。きっとそれが見えることでしょう。
 


2008年10月12日

山に向かって目を上げる(詩編121:1)
詩篇 121:T 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 テサロニケを少し休んで、今週からは、しばらく毎週詩編121篇から分かち合いたいと思っています。詩編121篇は、私が大好きな御言葉の一つですが、実は子供の頃は毎日、この詩編121篇を読んでいました。毎日、読んでいたので、全部覚えていて暗唱しているような感じでしたが、最近121篇の御言葉が心にとても迫ってくるのです。
 私の家は代々、クリスチャンの家系でした。私は4代目のクリスチャンです。クリスチャン何代目なのかが大切なわけではありません。別にそれを誇るために話しているのではありません。また、それがその人の信仰を代弁するものでもありません。

 ただ、出エジプト記 20:6にわたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 」あるように、クリスチャンであった先祖の信仰によって、家系にもたらされた恵みと祝福があることを今でも強く感じるものがあります。ですから、イエス様を信じる信仰の上に立っている皆さんも祝福と恵みの流れる通路なのです。私の子供の頃は毎日家で家庭礼拝が捧げられていました。それを取り仕切るのは、24年前に天に召されたおばあちゃんでした。おばあちゃんは、人一倍熱い信仰の持ち主で、このおばあちゃんが生きている間はずっと毎日、夜7時頃になると家庭礼拝が捧げられました。賛美、聖書の通読と詩編121篇の朗読、そして最後はこのおばあちゃんが祈るのが常でしたが、祈りの中で、必ず、家族全員のために一人一人名前をあげて祈っていくのでした。おばあちゃんの5人の子供(うちの父は長男)や嫁たち、婿たち、孫たち一人一人の名前をあげて祈っていきます。一人一人の頭からつま先まで祈られました。ですから、とても長い祈りでした。1時間以上かかるときもよくありました。祈り終わるとみんなで主の祈りを祈って終わるものでしたが、私は、最後まで起きていたことはあまりなく、祈りのどこかで大概寝てしまったものです。しかし、この家庭礼拝が私の信仰を支える大きな力となっていることを今でも感じます。どんなことがあってもイエス様から離れることはできないのをいつも感じていました。そして、この家庭礼拝でみんながいつも朗読し、暗唱していたのが詩編121篇でした。
 だれにも人生の荒野があり、苦しみがあり、悲しみがあり、大きな試練、困難、問題に直面するときがあります。私はその度ごとにこの詩編121篇の御言葉に支えられてきました。
 先週、メッセージのことを思いめぐらしていたときに詩編121篇に目が止まりました。これを語るように主から示されましたので、今週から、しばらく詩編121篇の御言葉を 分かち合いたいと思います。

今日は121:1です。
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

 皆さん、どこにも避け道がないように思えるような困難に直面したことはありますか。前を見ても、後ろを見ても、右も左も、どこを見ても道がないように思われるときです。そういうときの人々の反応は「もうだめだ」といって座り込んでしまうのが普通ですね。下に向かってしまいます。確かに前にも、後ろにも、右にも、左にも進むことができなのですから、当然の反応だと思います。
 先週のたまたまテレビをつけたら、洋画劇場という番組でした。ポセイドンという映画でした。見た方いますか? 私は途中からでしたが、舟が急な大波に飲まれて大きな豪華客船が転覆してしまうんですね。その中で、殆どの人は前にも、後ろにも、右にも、左にも、進めない、なすすべが無いと判断して座り込んでしまっていました。そして、舟の船長は皆を安心させようとこう言います。「今私たちの舟は転覆いているが、この中にいるなら安全だ。舟のGPSシステムから助けを求める信号は続けて発信されている5時間ぐらい救助隊が助けに来るだろう。」しかし、何人かの人がその舟から外へ出ようとして脱出の道を探しに動き出します。そして、様々な困難を乗り越えて最後は舟から出ることに成功します。そして、彼らが舟の外に出て救命ボートに乗った所、転覆していた舟がまたひっくりがえり、そのまま海の底へと沈んでいきました。この映画ではあきらめずに最後まで脱出の道を探し求めた勇敢な人たちは自らを救ったということです。よくあるアメリカ映画の英雄主義がこの映画にも現れていましたが、しかし、聖書が私たちに教えていることは「自分を信じてあきらめずに最後まで戦い抜け、必ず道は開かれる」というようなものではありません。確かにこれにも正しい一面がありますね。でも聖書が言っている所と一致しているのではありません。
 1858年ニューヨークのある家庭に一人の男の子が生まれました。しかし、生まれた子供はその後小児まひにかかってしまい、そして、視力も極度に悪くなりました。おまけに喘息で目の前のロウソクの日を消す力も無いほどの呼吸困難を持っていました。かろうじて生き延びていたこの男の子が12歳になった日、子供の父親は子供にこう言いました。“息子よ、お前の障害は障害ではないんだ。もし、お前が神様を心から信頼して歩み、神様の助けが与えられるなら、障害の故に人々はむしろお前に注目するだろう。そして、歴史に奇跡を残す驚くべき人生となるだろう。”障害を持ったこの子が、その後、23歳になったとき、ニューヨーク州議員なり、28歳のときにはニューヨーク市長選に出馬し、その後まもなく、ニューヨーク州知事になり、アメリカ合衆国の副大統領を経て、アメリカの歴史上一番暗かった時期に大統領となり、傾きかけたアメリカを再建する奇跡の主人公、1906年にはノーベル平和賞も受けたアメリカ第26代大統領ルーズベルトです。

 聖書は困難な問題や危機に際したときにどうすれば良いと言っているのでしょうか?

●山に向かって目を上げる
 山に向かうことが大切です。ここで山というのはシオンの山(丘)のことです。エルサレムです。神の聖なる都エルサレム、神の住まい、シオンのことです。エルサレムは要害の都市です。山の上に立てられた町です。ここで言われている山はこのシオンの山、エルサレムですね。すなわち、神の臨在のある所を意味しています。
 山に向かうとはすなわち、神の方へ向くということです。問題や苦難に直面すると私たちは周りの環境に人に、また自分に向かいやすくなります。問題や苦難のとき、肯定的で前向きな態度は大切なものです。しかし、それだけでは充分ではありません。そして、肯定的で前向きな態度の出所が自分自信に頼っているなら、それでは問題の解決とは違います。
 山に向かう(神の方へ向かう)ということが本当の肯定的で前向きな態度です。問題や苦難といっても様々ですが、自分の心の問題や自我と関係のある問題の場合は神の方へ向かうということ自体に葛藤を覚えることが多くあると思います。
 事実、歴史的にイスラエルが直面したすべての問題根本は外の敵によるのではなかったです。イスラエル自身が神に向かうことをやめてしまったことに端を発していたことを私たちは聖書を通して学んでいます。外との戦いは常に神の戦いですから、イスラエルに求められたのは神に向かって目を上げることでした。イスラエルにとっては偶像の神々に彼らが向かうことによって問題が起こされるということでしたし、今日の私たちの問題も同じです。偶像とは偽りの助け、偽りの避けどころです。

神様はどっち側? ×ゲームの話
 アメリカの南北戦争のとき、リンカーン大統領率いる北側が南側の攻勢に押されて厳しい状況になったときがありました。そのとき、リンカーンの一人の参謀がリンカーンにこう質問しました。“閣下、神様は私たちの側におられるのでしょうか?それとも南側でしょうか?” この質問にリンカーンはこう答えました。“私は神様が私たちの側におられるのか、敵の側におられるのかをもって
 悩んではいない。私の悩みはただ私が神様の方に立っているのかそうでないのかである。
 私たちはよく、神様が自分の側にいて助けてくれるのかどうかを気にしますが、本当は私たちが神様の方に立っているのかどうかを考えないといけないですね。神様は誰かの肩を持つ方ではあません。私たちの方が神様の側に立っているかどうかがいつも問われています。
 皆さん、病院に行くのは好きですか? 嫌いですよね。 どうしてですか? 何か健康上の大きな問題が見つかってしまうことへの恐れですね。 全く健康であればもちろん問題ないのですが、そうでない場合すなわち、何か問題があるとき、医者にみてもらうのは怖いですね。何を言われるんだろう?という恐れですね。 何も問題ないですよ」と言ってもらいたくなります。しかし、本当に何か問題があるならば、見つけないといけないですね。ですから、正しく問題を指摘し、解決して直してもらうためには病院にいかなければならないのです。山に向かう(神に向かう)ことがときに難しいのは私たちが抱えている問題や困難には私たち自身も関わっているからです。神に向かうときに自分を見てもらうからです。でも神の方へ向かわない限り解決はありません。
 次に、目を上げることが大切です。山に向かうこと、山はシオンの山、神の臨在のある所と言いましたが、神の臨在のある所にいても神に触れてもらえない人もいます。同じ礼拝の場所にいてもある人は主の臨在を感じ、ある人は寝てしまうということもありますね。どうしてですか。寝ている人の所だけ穴があいて主が臨在しなかったからでしょうか。そうではなく、山に向かって、神の方に来てはいるけれど、神に向かって目を上げていないからです。

 山に向かうことは、神のご臨在のある所に行くという具体的な行動です。そして、目を上げるということは神の臨在の前に来たならば、心を開き、主を待つことなのです。   

何のために山に向かって目を上げますか?

助けを探し求めて

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。

 皆さんはどこに助けを求めますか? 山(シオンの山:神)に向かって目を上げる者は見つけるのです。助けが必要な場面というのは、私たちの人生で耐えることなく、生じます。ですから、常に私たちは神様の方へ向かなければならないのです。神様に目を上げなければならないのです。

適用
●あなたにはまだ神に向かって目を上げることができない問題は残されていませんか?
●そのような問題が示されるならば、その問題の解決のために神の方に向かいましょう。神に目を上げましょう。



2008.9.28
「神を喜ばせようとして」Tテサロニケ2:4


2008.8.24
「夜が明けそめたとき」 ヨハネ21:3〜7



2008.8.17 「これらのことが書かれたのは」 ヨハネ2031



2008
.7.20 「唯一まことの神とイエス・キリストを知る祝福」
ヨハネ1713(琴&フラダンスのミニコンサート)伝道集会

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。詩90:10

日本人の平均寿命 男性78歳、女性85歳 平均して815ですが、これを24時間の時計にたとえるとどうでしょう。人生という時計、あなたの人生の時計は今、何時ですか?

すべての人間は死に対する恐れ、不安を持っていますね。死後どうなるのかが分からないからです。聖書はこれについてはっきり語っています。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように ヘブル9:27

 地上での人生 ⇒ 死後の世界、天国:永遠のいのち、地獄:永遠の滅び
 このどちらかを分ける基準は何でしょうか?

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ1713

永遠のいのち ⇒ 唯一まことの神とイエス・キリストを知ること

唯一まことの神 ⇒ 天地創造の神

イエス・キリスト ⇒ 唯一まことの神とともに世界が存在する前からおられて、天地創造をともになされた御子

知ること(知識ではなく、体験的に知る) ギノスコは関係を表す言葉です。

ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。マタイ12425

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイ723

すなわち、唯一まことの神とイエス・キリストを体験的に知ること、唯一まことの神とイエス・キリストと関係を持つことによって与えられるのが永遠のいのちであると書かれていることが分かります。

私たちは神様とどんな関係にある必要があるのでしょうか?

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 ヨハネ112 と書かれています。

信じる人は神の子どもとされる と あります。すなわち、私たちは神様の子どもであるという関係になるということですね。唯一まことの神とイエス・キリストを体験的に知ることとは、このような生きた関係になること、唯一真の神とイエス・キリストを信じることを意味します。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ316


2008年6月29日「わたしはすでに世に勝ったのです」
ヨハネ16:32〜33


 32  見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 33  わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
 

一人残す時が来る

 私たちは人生の中で誰もが一人残されるという経験をするようになります。誰も一緒にいてはくれないという時があるわけです。一人残されるという経験は誰もがしますが、ある意味一時的なものです。しかし、一時的でない孤独、永遠に続く孤独があります。それは死です。死への恐怖は、孤独への恐怖の極みだということができます。誰もが一度迎える死、死の前で人間は徹底的に孤独なのです。昔、王様が死ぬとその王様に仕えていた人たちも生きたままその王と一緒に葬るということがありました。人間の死への恐怖は、まさに究極の孤独への恐怖とも言えます。 地獄の道連れという感じです。でも、そのようなことで死の恐怖、孤独への恐怖がなくなるわけではありません。
 ヨハネ16章はイエス様が十字架へ向かわれる、死の問題に直面しているまさにそのときの話です。わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。イエス様は、一人残されるときが来たけれど、しかし、一人ではない と言っておられます。

一人ではない
 32節、父がわたしと一緒におられるからです。父がいっしょにおられる。一人ではない。昔の王たちが死ぬとき、死への恐怖、孤独への恐怖を克服するために、自分に仕えていた者たちを道連れにしたけれども、実際は死という究極の孤独を克服することはできないものです。一緒に死んでしまうのでは解決はないものです。私たちに必要なのは一緒に死んでくれる者ではなくて、いつまでも一緒にいてくれる者なのです。これで初めて一人ではないと言えるのです。
 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 マタイ28:20
 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。 黙示録1:18


 ここにイエス様の平安の源があります。父がわたしと一緒におられるからです。とイエス様は言っておられます。
 
平安を持ちなさい
 不安に勝つためには平安が必要です。この世が私たちに与える不安の中で一番大きいものは死という究極の孤独による不安です。これに打ち勝つことのできる平安をこの世が与えることはできないです。
 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。 ヨハネ14:27

 イエス様が言っておられる「父がともにおられることによる」平安、イエス・キリストにあっての平安が私たち人間には必要です。不安に勝つためにはイエス・キリストによる平安が必要です。

この世では患難がある。しかし、勇敢でありなさい

 患難はこの世から来るもの、患難にあっても、なお勇敢であるために必要なのは何でしょうか? 希望です。キリストにある希望です。
 世界的な臨床心理学者ブレズニッズ博士はストレスに関する臨床調査として、イスラエル陸軍の訓練兵たちを4組に分けて20Kmの行軍訓練をさせました。
 1組の兵士たちは、予め行軍距離は20Kmと知らされ、5Kmごとに残りの距離は何Kmなのかを教えられました。
 2組の兵士たちは、ただ、長い距離を行軍することになるとだけ知らされました。
 3組の兵士たちは、15Kmを行軍すると言われましたが、14Km地点で20Kmに変更となったと言われました。
 4組の兵士たちは、25Kmを行軍すると言われましたが、14Km地点で行軍は20Kmに短縮されると言われました。

 この臨床調査によって得られたストレスと士気の関係についての調査結果は次の通りでした。一番士気が高く、ストレスも一番少なかったのは1組、行軍距離をまったく知らず、ただ長い距離を行軍するとだけ言われた2組が士気も一番低く、ストレスも多い結果が出ました。ところが、最初知らされた距離より、途中で短縮された4組が最初に知らされた距離から変更されて、さらに長く行軍した3組よりももっと士気が低く、ストレスも多かった点が意外な結果として上げられました。これについてブレズニッズ博士は“苦しいか楽かより、希望か絶望かが人間にとっては根本的な問題である。人間が一番ストレスを感じるのは苦しいときではなく、希望がないと感じるときである。”と分析しました。

 正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。
                                            箴言24:16


 神曲を書いた、イタリアの有名な詩人、ダンテはこんな話をしました。 地獄の入り口には次のような言葉が書いてあるだろう。“一切の希望を捨てよ!” 地獄とは何の希望もないところです。 
 
 患難の中でも勇敢であるためには希望が必要です。それでは、私たちが持っている希望はどんなものでしょうか?
次のイエス様のお言葉です。

わたしはすでに世に勝った
 (世とは暗闇の力、霊的な勝利、完了形で使われている) イエス様はこの時点ではまだ、十字架にかかっていないし、復活もまだ成し遂げていないというときです。
 これから、イエス様が通らなければならない十字架はまさに患難です。しかし、イエス様はそれを勇敢に通り抜けましたね。イエス様には希望があったからです。その希望はすでに勝っているという結果を知っておられることでした。イエス様はすでに勝っている戦いを戦い抜いて圧倒的な勝利を収められました。イエス様を信じる私たちのための勝利です。ですから、イエス様の勝利は私たちの勝利でもあるのです。
 
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。Tヨハネ5:4

 私たちもイエス様のチームですから、イエス様の勝利は私たちの勝利でもあります。私たちはみなすでに世に勝っているいます。


ですから、みなさん、主の平安を持つことです。私たちは一人ではありません。この世では確かに患難があります。でも患難に耐え抜きましょう。私たちにはイエス・キリストによる希望があるのです。患難にあっても勇敢に戦い抜きましょう。イエス様はすでに勝利されたことを忘れないようにしましょう。私たちもキリストにあって勝利者なのです。


2008年6月15日「行なうときに祝福される」 ヨハネ13:15〜17

 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。 ヨハネ13:15〜17

イエス様が弟子たちを教えた方法は三つでした。
@神の御言葉 (聞く) Aご自身の模範 (見る) B弟子たちの経験 (体験する) 
----------------------------------------
神の御言葉 旧約聖書、イエス様ご自身のお言葉

イエス様の模範 イエス様ご自身の生き様(寝食をともにした3年あまりの期間、十字架、復活)
 イエス様の模範を通して、弟子たちは先祖代々教えられてきた聖書の御言葉の成就を見た。聖書に書かれたこの言葉はそういうことだったのか? イエス様のおっしゃったお言葉はこういうことだったのか?

弟子たちの経験(神の御言葉とイエス様が示された模範を自ら経験する) 
 イエス様がともにいた時も、もちろん様々な経験をしたが、実際的なものとしての経験、本物の経験というのはペンテコステの日の聖霊降臨以降のことである。イエス様はもう一緒にはいなくなったが、そのとき初めて、彼らは本物の経験をするようになった。それには聖霊様(助け主)の満たしと導きが必要。
 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」    使徒4:19〜20
 それでは、今日の弟子たちである私たちはどのようにイエス様から学ぶのでしょうか? 基本的には同じ方法ですね。

神の御言葉 旧約聖書、新約聖書:イエス様ご自身のお言葉が新約聖書として残されていますから。でも最初のイエス様の弟子たちとは違う点がありますね。それは、彼らはイエス様から直接聞き、教えられました。しかし、今の私たちはどうでしょうか?直接、聞いていませんよね。書かれた書物としての御言葉、聖書を持っています。ここで私たちに求められるのは何でしょうか?直接、聞いていないけど、それを神の御言葉として受け取るために信仰というが必要です。信仰は今までは見えなかったものを見えるようにしてくれます。今までに聞こえなかったものを聞こえるようにしてくれます。

イエス様の模範 (新約聖書に書き記されているイエス様の模範を通して)
 これも私たちと最初のイエス様の弟子たちとは違う点がありますね。これも彼らはイエス様と一緒に生活して見てそれを体験しました。しかし、私たちはイエス様と寝食をともにしたわけでも、十字架、復活を実際に見たわけでもありません。 でもイエス様を信じる信仰によって聖書を開くならば、聖書に書き記されたイエス様の模範をいくらでも見ることが出来るのです。

私たちの経験(新旧約聖書と聖書に記されているイエス様の模範を自ら経験する、実践する) 
 最初の弟子たちとこの部分は一緒です。この三つとも大切ですが、その中でもB番の弟子たちの経験は@神の御言葉とイエス様の模範から見習った事柄が実際に試されるという意味において、非常に大切な学びの要素であると言えます。なぜならば、弟子たちの経験とは @神の御ことば、Aイエス様の模範から学んだものを実際に自分たちの人生に適用した実践による学びだからです。B番の弟子たちの経験という学びを抜きにして本当に弟子としての実を結ぶことは出来ません。

 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。 ヤコブ1:22〜25

 日々御言葉をとおして聖霊様が語られる声に耳を傾けましょう。そして、聞いたならばそれを行ないましょう。祝福されます。


2008年6月8日「あなたの先生は誰ですか?」ヨハネ13:3

 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。 ヨハネ13:13

 イエス・キリストを信じる多くのクリスチャンがときに、イエス様が私たちの人生に関する間違いのない確実な情報を持っておられる方だと思っていないかのように行動しています。 もし、学生が教えている教師が自分に一番正しい情報を提供してくれると信じていないならば、その教師からはあまり学ぶことがないでしょう。 知識や知恵、情報においてイエス様が一番優れたお方であることを認めますか?
 しかし、実際は認めないことが多くあります。それにはイエス様をそのようなお方だと心から信頼して尊重することができていないからですね。

 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。コロサイ2:3

 初代教会のクリスチャンたちはイエス・キリストにすべての知恵と知識との宝が隠されている。すなわち、イエス様が私たちの人生に関する間違いのない確実な情報を持っておられる方だということを文字通りに信じていました。彼らはイエス様を私たちの人生のすべての領域における主、先生、指導者、大家(巨匠)として認めていました。

 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ3:17

 このみことばは 2:3の御言葉を心からそうだと信じていなければ実践できないものです。すべてのことを私たちは主イエス・キリストによって成しているのでしょうか?

 私たちの先生がイエス・キリストであるとするならば、私たちはイエス様が このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 コロサイ2:3  このようなお方であることを心から信じ、認め、信頼していることが必要です。

 これを通して初めて、イエス・キリストが私たちの本当の先生となるのです。
 私たちはイエス様から三つ面において学び、情報を受け取らなければなりません。
 
@ 生きる理由と目的(私たちがやっていることの意味)をイエス様から学ぶ
 昔、ロシアの首都であったペテルブルグにアカキエビーチという名の老人が住んでいました。人々から「あなたの人生の目標は何ですか」と聞かれるとこの老人は決まって、こう答えました。「上品な高級の外套を持つことです。」彼はその目標を達成するために一生懸命貯金をし、働きました。そして、とうとう彼は80ルーブルのお金をためて、人生の目標としてきた高級外套を買いました。彼はその外套を着て、格好良く、パーティーに出てその外套を誇りたかったのです。外套を買ったその日はアカキエビーチにとっては人生の目標を達成した日でした。彼の心は期待感と喜びに満ちました。
しかし、無念にも外套を買って家に帰る道で彼は強盗に会います。力のない年寄りのアカキエビーチはその高額の外套を奪われてしまいました。アカキエビーチはただ単に外套を奪われたのではなく、彼の幸せをも奪われてしまいました。その日以降彼は絶望のどん底で日々を過ごし、体も弱りはて、死んでいきます。
 この話はロシアの小説家ゴーゴリ(1809〜1852年)が書いた小説“外套”に出てくる話です。この小説に出てくるアカキエビーチという老人とは対照的な一人の実在した人物を紹介します。

 人類の歴史上一番美しい音楽を残したある人の話です。しかし、彼の人生は彼の作品のようではありませんでした。彼の人生は文字通りに苦難の連続だったんです。10歳になる前に両親を失います。彼を育ててくれたのは兄でしたが、兄は自分が面倒を見ることになった弟を憎みました。彼の人生は成人してからも苦しいものでした。結婚13年目に妻が亡くなりました。再婚をしましたが、二人の妻によって生まれた20名の子供のうち、10名は幼いときに命を落としました。1人の子供は精神障害を持った子でした。彼は年老いてからは目が見えなくなりました。そして、脳溢血で倒れて半身不随になってしまいました。しかし、このような状況の中でも彼は作曲を続けました。多くの人々の魂をとりこにするほど、すばらしい作品が生まれてきました。この悲惨な人生を送った人は誰でしょうか?
 この人が、ルーテル教会の信徒で熱心なクリスチャンであったヨハン・セバスチャン・バッハです。 バッハが作曲したカンターターオラトリオの最後の部分には必ずSDGという文字が書かれていました。これは“ただ、神の栄光だけのために”(Soli Deo Gloria)という意味のラテン語のイニシャルです。バッハの人生の目的は苦しみの中でも神の栄光だけのために生きることでした。

 私たちの人生の目的はどこにありますか?創造主なる神を知らない人はこの質問に答えられないのです。私たちも気をつけないと目的を見失ってしまいます。

 だから、私たちはイエス様から、生きる理由と目的(私たちがやっていることの意味)を学ばなければなりません。

A 内面の新しい品性をイエス様から学ぶ
 アメリカ人は車のバンパーに色んな種類のシールを貼っています。飾りというか、何か言いたいことなどをそのような形で表現したがるようです。中にはこんなものもあります。“すっぱいレモンをもらったら、そのレモンを用いてレモネードを作りなさい。”(When life hands you a lemon, Make lemonade). これの意味は、苦い人生の経験がかえって、人生の素晴らしい甘い祝福ともなれるということを語っているものです。
 苦しみのときにもそれを通して神様が自分の人生で成してくださる究極の祝福と希望を見出せる人なら、その苦しみは私たちに忍耐と知恵と練られた品性、イエス様に見られる人格の実を結ぶことが出来るようになります。
 忍耐はただの我慢ではありません。イエス様を見上げて(イエさまに倣って)、それに耐え抜くことです。
 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
                                              ローマ5:3〜4

 患難を乗り越えて勝利する秘訣はイエス様のことを考えることです。

 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:3

 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。Tコリント10:13


B 日常生活の具体的な事柄(小さいことから、大きいことまで)の中でイエス様が私たちの生活に積極的に介入し、私たちに働きかけておられることを学ぶ

 アメリカの福音的なクリスチャンの間でWWJDということばが流行ったことがあります。これは、‘What Would Jesus Do?(イエス様だったらどのようにされるだろうか)’という言葉のイニシャルです。 この問いかけはチャールズM シュエルドンの小説 ‘In His Steps (主の御足跡に従って)’から由来したものですが、チャールズM シュエルドンは小説の中で、人々が決めなければならない毎日の選択において“イエス様だったらどのようにされるだろうか”という質問を読者たちに投げかけ、問題解決の手がかりを提供しました。
 もし、私たちも何かの決定のとき、“イエス様だったらどのようにされるだろうか”という質問を自分に投げかけるなら、私たちの人生にも大きな変化が起こるでしょう。もちろんこれをいつも意識して実行することはたやすいことではありません。

 私たちが 主イエスの名によって(コロサイ3:17) ことを成すときには、すなわち、瞬間瞬間をイエス様との関係の中に生きるときには 必ず、イエス様ご自身が私たちの人生に介入されます。 私たちはイエス様が私の日常に関わってくださっていることを学ばなければなりません。
 師であるイエス様が私たちの日常に入ってこられることを期待し、イエス様の言動に注目するならばイエス様は必ず私たちにそれを教えてくださいます。

 私たちがイエス様を本当に このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。コロサイ2:3 この御言葉通りの私たちの先生であると信じるならば、私たちは常にイエス様に尋ねることでしょう。そして、イエス様はあらゆる方法で私たちを教え始めるでしょう。

 最後にもう一度、イエス様のこの御言葉をお読みしたいと思います。

 あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。 ヨハネ13:13


2008年6月1日「主を仰ぎ見る者は生きる」民数記21:8〜9


 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。民数記21:5〜9

燃える蛇(複数形) - 毒蛇 6節
@私たちの罪を象徴

一つの青銅の蛇 − 青銅の蛇には毒はない
A人間となってこられた罪なきキリストを象徴
 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ヘブル4:15

青銅の蛇を旗ざおの上につけた
Bキリストの十字架の贖いを象徴
 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
                                             ヨハネ3:14

蛇が人をかむ(これは青銅の蛇ではない燃える蛇のことである)
C罪による死を象徴
 罪から来る報酬は死です。ローマ6:23

青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた
D十字架のキリストを仰ぎ見る者は救われる
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。Tコリント1:18
 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。使徒2:21


 十字架のキリストを仰ぎ見る者は救われるこれについて具体的に考えてみたいと思います
@癒される
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。Tペテロ2:24

A迷わなくなる
 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。Tペテロ2:25

B励まされる
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 ヘブル12:2〜3

C新しい力を得る(愛する力、赦す力、耐える力、感謝する力。。。)
 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。イザヤ40:31

D新しい命を得る
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16

2008.5.25 「あなたはイエス様の弟子ですか?」
マルコ31315、マタイ281820


 去年の札幌市民クリスマスのときにあるフルートを吹くゲストがいました。 このゲストはいくつかのフルートと笛を使って次々と演奏をしていましたが、最初に使ったのは小学生たちが学校で使っているのと同じようなものでした。彼はその安い笛を使った演奏が終わった後、今私が使った笛は小学生が学校で使っている笛と同じぐらいの値段の安いものです。でも、私はこの笛で演奏するのが好きです。そして、こう言っていました。まあ、どんなものを使うかではなくて誰が使っているかが重要だということでしょう。
 もちろんどんな楽器を使うかも大切です。しかし、それより、遥かに重要なのは誰が使うかですね。
 
 イエス様も同じ考えを持っておられます。イエス様は公生涯をはじめるにあたって最初にしたことは弟子を呼び寄せることでした。

 イエス様の12弟子の名前は覚えていますか? 別に覚えなくても良いと思いますが、

  ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、・・・ ユダ

 この弟子たちの面々を聞いていて、分かるのは。 
 たいしたことない人たちばっかりだということですね。ガリラヤの無学な漁師たちに、収税人、弟子たちがどんな学歴や能力を持っていたかではなくて、その弟子たちを用いる方が、誰か、それが、問題です。イエス様が用いたのです。
 先ほど安い笛で演奏した市民クリスマスのゲストの話をしましたが、同じことですね。
 イエス様に用いられるなら、学歴や能力とかは大きな問題にはなりません。必要なのは呼び寄せられた者がイエス様に従う従順さがあるかどうかだけが問われます。

 マルコ3:13〜15の御言葉です。

 13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼ら   はみもとに来た。
 14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わ   して福音を宣べさせ、
 15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。


 ここでイエス様は12弟子をお立てになっていますが、

★何のために12人の弟子をお立てになったのでしょうか?

 13節に、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた とあります。
 イエス様がお望みになったとあります。何で弟子たちを望んだでしょうか。
 彼らが、
 @必要だったからです。
 マタイ21:3 『主がお入用なのです。』

★イエス様が弟子たちをお立てになった次の理由は?
 
 14節に、彼らを身近に置き とあります。
 Aともにいるためです。
 3:14 and he chose twelve, whom he named apostles. "I have chosen you to be with      me," he told them. "I will also send you out to preach,
 日本語訳では、「身近に置き」と書いてますが、英訳を見ると to be with me ですから、
もっとはっきりしますね。ともにいるようにするために選んだということです。目的がはっきり書かれています。原文のギリシャ語も同じ意味です。イエス様は何よりも、皆さんとともにいたいと願っておられます。
 しかし、イエス様がともにいたいと願っておられるのには、ただともにいる以上の目的があります。それは、何でしょうか?
 私たちを導きたいということですね。(違うことばにすると訓練でしょう)父親はただ子供と一緒にいたい、いてあげるだけではなく、子供を愛し、教え、訓練させるためにいるのです。イエス様もそうです。私たちとともにいたいという強い願いとともに、それには私たちに御心を示し、私たちを導き、訓練するという目的もあるのです。

★イエス様が弟子たちをお立てになったもう一つの理由は?

 14節に、遣わして福音を宣べさせ とありますように
 B福音伝道に弟子たちを遣わすためです。

 イエス様はこの地上での公の働きを始められたとき、最初に選ばれた12名の弟子たちに、イエス様が十字架の死からよみがえられた後、天に昇られる前に残した最後の遺言のような命令がありますね。皆さんもご存知です。

 イエスは近づいて来て、彼らに(弟子たち) こう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:18〜20


 イエス様は弟子たちを福音を宣べ伝えさせるため、遣わしています。そして、この命令の中心は「弟子としなさい」というお言葉ですが、弟子たちに、他の人々を弟子としなさいと命じておられます。
 @行きなさい(伝道)
 A弟子としなさい(主動詞)
 Bそして、バプテスマを授けなさい
  (信じない人にはバプテスマは授けられないですから、弟子とした後にバプテスマを授   けるということですね。すなわち、伝道してイエス様を受け入れたものはみな主の弟   子であるということをこの御言葉は語っているのです。)
 Cイエス様が教えられたすべてのことを守るように教えなさい。
  私たちはこれを通して弟子となると思いがちですが、そうではないのです。
  信じたものはイエスの弟子なのです。

 Q.自分はイエス様の弟子だと思う人は手を挙げてください。
 Q.自分はクリスチャンではあるけれど、まだ主の弟子にはなっていないと
   思う人は手を挙げてください。

 新約聖書には弟子という言葉が294回(新改訳)出てきます。そして、キリスト者という
言葉は3回(新改訳)出てきます。もちろん新約聖書はイエス様についての書物でありますが(イエスという言葉は1772回も出てくる)「新約聖書はイエス・キリストの弟子たちに関する、また、弟子たちによる、弟子たちの書物である。」とアメリカの神学者であるダラス・ウィラードは言いました。
 それだけ、弟子という言葉は新約聖書において大きな意味を持っています。確かに新約聖書のほとんどはイエス様の弟子たちによって書かれましたね。

★誰がイエス・キリストの弟子なのか?
 今日の教会においては弟子であるということの概念がゆがめられています。クリスチャンにはなるけれども、弟子までにはなれないだろうという思いを持つクリスチャンが大勢います。弟子となるか否かはクリスチャンの選択事項でもあるかのような考えが存在するのです。
 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが
弟子に加えられた。使徒2:41

 信じたその日に弟子と呼ばれているのですから、クリスチャンであるということは弟子であるということをも意味します。

 ギリシヤ語クリストス(キリスト)に,所属や特徴を表すラテン語形語尾イアノスがついたギリシヤ語クリスティアノス(キリストに属する者,キリストにつく者,キリスト党,キリストに従う者の意味.英語音訳はクリスチャン)の訳 (聖書の達人) 
 キリストに属する者、キリストに従う者、クリスチャン=弟子であることがわかりますか。
初代教会では救われた者を弟子と呼びました。今日もこれは変わらないのです。聖書がそのことをはっきりと言っているのです。イエス様の最後の命令も“あらゆる国の人々を弟子としなさい”なのです。

 皆さんはクリスチャンであるということはすなわち、イエス・キリストの弟子であるという
ことなのです。私たちもみな、イエス様の弟子として呼び寄せられています。ですから、当然ですが、イエス様から愛され、学ばされる必要があります。最初の弟子たちのように、私たちは体でイエス様とともにいることはできないです。
 しかし、今日にもイエス様は私たちのところにいらっしゃいます。以前よりも密な形でですね。時間と空間の制約がない状態でです。どこででも私たちは聖霊様によって御子イエス・キリストとともにいることができます。
 最初の弟子たちは物理的な環境においてイエス様を体験しましたが、私たちは内面において、霊において、今なおイエス様とともにいてイエス様から学ぶのです。具体的には聖書を学び、祈ることによってです。聖霊様のお助けなしに、私たちは真に聖書を学ぶことも祈ることもできないのです。今日の弟子たちである私たちクリスチャンも初代の弟子たちと同じようにイエス様に従うようにと召されています。

 イエス様は今も同じように私たちを弟子としてお立てになっています。

 それは、私たちを、主が必要としておられるからです。もちろん、私たちの力を借りる必要があるという意味ではなくて、私たちのような者を用いることを主が喜んでおられるからです。
 そして、聖霊様を通して、主が私たちとともにいて、 私たちを整えさせるためです。
 最後に、福音の良き訪れを知らせるものとして遣わすためです。

 教会は(すなわち、私たちは)、今もなお、生きておられるキリストの体として世に遣わされているのです。


 だれかの弟子となることとは、その教えを心から信じているだけではなく、その教えが日常の生活での実践を通して表されるようになることであります。私たちはイエス・キリストの弟子です。イエス様のみ教えを心から信じています。しかし、それだけでなく、主の教えが日常の生活での実践を通して私たちの人生で表される必要があります。

 『主がお入用なのです。』 マタイ21:3


 
2008.5.4「弟子たちの足を洗われるイエス」ヨハネ13115

 ヨハネの福音書2章から12章までは「しるしの本」という小タイトルがついています。
 様々な奇跡としるしのみわざが記録されています。しかし、12:37には結論的に次のように書かれています。
「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。」 人々が救われるのは奇跡のためではないです。奇跡としるしは、イエスが救い主であることの証しです。しかし、信じることは人知を超えた神のみわざによることですね。

 13章から20章までは「栄光の本」というタイトルがついています。13章から20章の間のクライマックスは19章と20章の十字架と復活です。十字架と復活がイエス・キリストの栄光の極みです。イエス様の働きの花は十字架と復活にあります。
 今日はヨハネの福音書13章からのメッセージですが、13章は「栄光の本」の最初の部分に当たります。13章にはイエス様が弟子たちの足を洗われる記事が書かれていますが、栄光の本の最初の部分に記されているこの出来事はまさにイエス様の地上での働きを象徴するものであるということができます。
 13章の1節には、
「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られた」 とあります。イエス様が父のみもとに行くべきときが来たことを知られたときに、弟子たちの足を自ら洗われたのには深い意味があります。これはイエス様がこの世に来られた目的を示す象徴的な出来事です。

●救い主イエス
 イエス様のこの世での働きは二つに分けられますが、一つ目はイエス様がこの世に来られたのは私たち人類の救いのためということです。神であられる方が人間の姿をとられ、この世に来てくださったのはまさに主人が僕の足を洗うことにたとえることができるでしょう。ユダヤ人の社会でユダヤ人同士は足を他人に洗ってもらうことはできないことでした。
たとえ僕であってもそれがユダヤ人であるなら、主人はその僕に自分の足を洗うように命令することはできなかったのです。ですから、主であり、先生であるイエスが弟子たちの足を洗うことはありえないことなのです。ペテロの反応はまさにこのことを語っているんですね。
 イエス様が、ここで弟子たちの足を洗うということは、すなわち、人間を救うために、神が人となってこの世に来られた受肉の驚くべき神の救いの方法と愛を示していることに他ならないのです。
 神である救い主イエス・キリスト、人間となってくださった、イエス・キリストがここに現されています。
 
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」ピリピ2:6〜8

●モデルイエス
 イエス様がこの世に来られた、もう一つの目的、それは模範を示すためです。 14節と15節に、
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」とありますが、
 足を洗い合うとは?足を洗うという行為の実際的な意味は何でしょうか?

@愛し合うこと
 
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさいわたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 
                                               ヨハネ13:34

A赦し合うこと、互いに忍び合い

 
「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」エペソ4:32

 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」コロサイ3:13

 「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」ヘブル12:3


 尊敬されるクリスチャンでもあったアメリカ第16代大統領アブラハムリンカーンにはいつも彼を批判し、侮辱を与える政敵がいました。その人はある日、人々にこう言いました。
“みなさん、私たちはゴリラを見るためにアフリカまで行く必要はありません。イリノイ州のスプリングフィールドにいけばゴリラを見ることができます。”と言い、リンカーンに侮辱を与えたこともありました。リンカーンの顔立ちがゴリラに似ていたからでした。ところがリンカーンは大統領になった後、組閣のとき、一番重要なポストである国防長官にこの人を任命しました。リンカーンの参謀たちは衝撃を受けました。どうして、国防長官という重要なポストに敵を任命するのかと参謀たちは聞きました。リンカーンは次のように答えました。
“もう、彼は私の敵ではない。私にとっては敵がいなくなることは素晴らしいことだ。そして、彼の助けも得ることができるのではないか。私が、彼を赦し、重要なポストに彼を任命したことで私が失ったことは何もない。”
 復讐はさならる復讐を招き、お互いを破滅させます。しかし、赦しは、赦す人も赦される人も祝福を受けます。

B仕え合うこと
 
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」Tペテロ4:10

 
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」
                                               マタイ20: 28

 以前、マザーテレサがアメリカを旅行しているとき、ある女性に会いました。この女性は人生の苦しさのあまり、自殺しようとしていることをマザーテレサに告白しました。そして、自分はこれからどうすれば良いのかとマザーテレサに聞きました。マザーテレサはこの女性に一つの提案をしました。“自殺する前に一つだけ私のお願いを聞いてください。一ヶ月間だけ、私が働いているインドのカルカッタに来て、私を手伝ってください。その後、あなたはこれからどうすれば良いのかを教えます。”と言いました。
 この女性はマザーテレサの提案を受け入れ、カルカッタに行きました。そして、一ヶ月間、マザーテレサと一緒にカルカッタのスラム街で貧困と病の中で苦しむ人々に仕えました。このことを通してこの女性の心には人生に対する意欲が生まれてきました。“ここには私を必要とする人々がいる!彼女は彼らに仕えることによって、純粋の喜びを感じていました。やがて一ヶ月の時間が過ぎましたが、彼女にマザーテレサの助言は必要なかったのです。その後、女性はカルカッタに残り、マザーテレサとともに働くようになったのです。

 仕えることを義務と思ってやるなら、それは続きません。自分を必要とされていることに喜びを持って仕えましょう。

C励まし合うこと、徳を高め合う
 
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」Tテサロニケ 5:10〜11

D勧め合うこと、注意し合うこと

 
「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」 
                                               ヘブル10:24
E重荷を負い合うこと
 
「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」ガラテヤ6:2

 アメリカのインディアナ州のある田舎町にブレーンチューマという脳に腫瘍ができる病気を患っている15歳の少年ブライアンが住んでいました。ブライアンは手術を受けた後、放射線治療も受けました。放射線治療の影響でブライアンの髪は全部抜け落ちてしまいましたが、学校には行けるようになりました。ブライアンの通う学校は、田舎の学校でクラスの学生数は20名ほどでした。いよいよ、ブライアンが学校に行く日が来ました。ところが、ブライアンが登校する前の日にクラスメートたちはブライアンが治療のせいで髪が抜けて丸坊主になっていることを知り、互いに連絡し合って、あることを決めました。それは、彼らの愛する友であるブライアンが恥ずかしく思うことなく、学校に来て、恥ずかしい思いをすることのないようにするためのものでした。ブライアンが苦しみの中でも堂々と学校に来ることができるようにするため、クラス全員が髪を切り、丸坊主になることでした。ブライアンが戻ってきた最初の授業で先生が教室に入ってみるとブライアンだけじゃなく、子供たち全員が丸坊主になっていました。その理由を知った先生は前に立って、泣いていました。そしてみんなも泣きました。
 
 苦しみの中にいるときの最大の慰めはともにいてあげることです。

 私たちはイエス様の模範に従って歩むようにと召されています。みなさん、イエス様の模範に従って生きる者となりたいですか。

 そのためには私たちの永遠の模範であるイエス様をいつも見る必要があります。そして、まず、イエス様が自分にしてくださるこれらのことを体験する必要があります。
 愛すること、赦すこと、仕えること、励まし、徳を高めること、勧め、注意すること、重荷を負うことこれらすべてはイエス様が私たちにしてくださったことです。

 
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」                                        Tペテロ2:21


 イエス様の救いのみわざに感謝し、また、イエス様に倣って従ってきましょう。

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2008年4月6日(1周年記念礼拝)
「目標を目ざして」ピリピ3:14


 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 ピリピ3:14


 まず、最初に知る必要があることは、私たちは召されているということです。
 召すとは、お呼び寄せになるの意です。誰からの召しですか。神様からです。
 どこへですか。上に(神の御国へ)です。そして、すべてはイエス・キリストによってです。

★それでは、何のために召されているのか?

 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。Tペテロ2: 21


 その足跡(イエスの)に従うように、すなわち、イエス様の足跡に従うように召されているのです。イエス様の足跡に従うことは
@和解の使者となることです。
 神と人との和解がイエス・キリストの十字架におけるあがないのみわざによってもたらされたことを伝える使者です。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。コロサイ3:15

A聖い生き方を目指すことです。
 神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。Tテサロニケ4:7

B祝福の源となることです。
 イエス様はご自分を無にして十字架にまで御父に従いとおし、私たちに計り知れない祝福をもたらしてくださいました。私たちも受けた祝福と恵みを世に受け流すべきです。

 
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。   Tペテロ3:9

 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。  エペソ4:1


★私たちの目ざす目標(ゴール)は永遠の御国です
 
このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。Uペテロ1:11

 ゴールに至るまでには過程がありますね。召しにふさわしく歩むことがゴールを目指した歩みです。
 イエス様の足跡に従って、和解の使者となり、聖潔を保ち、祝福を受け流すものとなりましょう!



2008
330日 
「あなたはよみがえりの主に会いましたか?」 
ルカ24:13〜33

13ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
14そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
15話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた
16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった
17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
19 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。
20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
31 それで、彼らの目が開かれイエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。